機械翻訳の発達している現代で、なぜまだ外国語を学ぶのか。

日記
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ドラえもんの道具「ほんやくこんにゃく〜」さながら、現代の機械翻訳ツールの発達は凄まじい。

学生時代の唯一の得意科目が英語だった私。そんな私も、「英語がやや得意という一点のみで人生なんとか切り抜けてるやつ」のプライドなんてもう、とっくのとうに捨て、今やGoogle翻訳・DeepL・みらい翻訳・・などなど、優秀な機械翻訳ツールに頼ってばかりの日々である。

さらに先日、こんなツイートを目にした。

今や、文章の機械翻訳だけでなく、自動逐次通訳の精度も上がっている。

では、私がこれまで必死に英語(と少しの中国語と少しのインドネシア語)を勉強してきたことは、無駄だったのだろうか?今後さらに機械翻訳が発達すれば、未来の子どもたちが外国語を学ぶ意味はなくなってしまうのだろうか??

そんな問いに、「なるべくNOと言いたいな〜」という気持ちが先走りつつ、考えてみました。「機械翻訳の発達している現代で、なぜまだ外国語を学ぶのか。」

新たなモノの見方を獲得する

外国語を学ぶと、この世界を表現する方法は言語によって様々なんだなーと感じることがある。家族を表す言葉を例にしよう。

日本語では、兄と弟を括る言葉として「兄弟」が存在し、姉と妹を括る言葉として「姉妹」が存在する。英語では、”brother”が「兄弟」、”sister”が「姉妹」に対応する。(中国語も下図の通り、対応する単語がある)
でも、兄弟・姉妹どちらも包括した単語である英単語”sibling”は、日本語にうまく訳せない。ジェンダーになにかとうるさいこの令和の時代において、日本語も”sibling”的な言葉を持っておくと便利だと思う。

さらに、インドネシア語では、「兄弟」、「姉妹」という男女の括り方でなくて、”Kakak”(兄姉)、”Adik”(弟妹)という上下の括り方をする。

「ふーん、インドネシア語は上下の区別を重んじて、日本語や英語は男女の区別を重んじるということ??」と言われたら、よく分からない。ここで言いたいのは、普段我々が使っている単語、一つ一つは宇宙が誕生した時から定められて揺るがない科学の法則のようなものでは全然なくて、誰か大昔の誰かさんがたまたま「こう表現しよう!」と決めて、同じコミュニティの中でたまたまその表現方法が共有されたのだということ。

虹の色を8色に分類する言語もあれば、2色に分類する言語もあるらしい。私はたまたま虹の色を7色に分類する言語社会に生まれたから、7色と思い込んでるけど、2色に分類する言語社会に生まれていたら、2色に見えていたのかも。(でも実際に虹の色が7色かはまだ数えたことないんですけどね。でも少なくとも2色より多く見える気がする。)

日本語では失恋したときに「恋を失った」と捉えるけど、英語では「Broken heart 心が壊れた」と捉えるんだな〜。失恋した時の、感情のあり方も言葉によって支配されているのかもしれない。

世界の分割の仕方・括り方・表現の仕方は、本来とっても自由で、人の数だけあるはず。けれども認識がバラバラだと意思疎通がうまく行えないこともあるだろうから、円滑にコミュニケーションを行うために、コミュニティ内での共通認識として「言葉」が形成されてきた。それはとても便利なものだけれど、私たちの思考を知らず知らず支配しているかもしれないね。

外国語を学ぶと、そんな「一つの言語の中での当たり前」の呪縛から解放されて、新しいモノの見方を獲得できる。そんな新鮮さ、面白さが好きなので、私は外国語を学び続けたいな〜と思う。

さて、今私がダラダラと語った話は、私の愛聴Podcast「ゆる言語学ラジオ」で「プールに浮かべられたブイ」という例えを使って、とても分かりやすく、面白く解説されています。是非聴いてみてください!

外国語のエンタメをより一層楽しむ

世界的に大ヒットしたアニメ映画「君の名は」。女子高生の三葉が、男子高校生の瀧の身体に入れ替わってしまい、友人に話す際に「私」、「わたくし」、「僕」、「俺」とどの一人称を使うか戸惑ってしまうという有名なシーンがある。

日本語が分かるシンガポール人の友人は、シンガポールの映画館でこのシーンを見て(おそらく多くの日本人がそうするのと同じように)爆笑したそうだ。ただ、日本語が分からない他のシンガポール人の観客は誰も笑っていなかったから、映画館で一人浮いてしまったんだよね、という話を聞いた。「私」、「わたくし」、「僕」、「俺」という全ての一人称が英語字幕では「I」となってしまうので、日本語学習者でなければ、笑いどころだと分からないのも無理はない。

今は、偉大な翻訳者の方々のおかげで、オリジナル版の言語がわからなくても数多くの海外作品の翻訳版を楽しめる。でも、元の言語がわかったほうが、製作者の意図を深く知れてきっともっと面白いはず!Kpopが大好きな私は、最近韓国語を勉強し始めた。韓国語がわかるようになって、もっとKpopを楽しめる日が来ると良いな♪

便利な表現・素敵な表現に出会える

私の大好きな英単語の一つに”procrastinate”という単語がある。辞書によると「やるべきことを遅らせる、ぐずぐずと先延ばしにする」という訳。日本語だと、一語でスパッと言い切れない言葉が、英語だと”procrastinate”という便利な言葉で表現できる!!

夏休みの宿題を2学期が始まる前日までやらない子どもたち!締め切りギリギリまで原稿を出さず編集者に追い立てられる漫画家たち。この記事を書こう書こうと思って半年ぐらい筆が進まなかった私・・。みんなみんな生きていれば、”procrastinate”しちゃうんだな〜。そして、”procratinate”という単語を知ったことによって、「この怠惰な性質は私だけでない!万人に共通する性質なのである」と安心してしまった自分がいる。

もう一つ!私の好きな中国語表現「樱花谢了」をご紹介しよう。もしかしたら中国語を学んでいない方も、なんとなく見慣れた漢字が並んでいるな〜と思ったかもしれない。「樱花」は桜のこと。「谢」は、「谢谢(ありがとう)」でおなじみの漢字だが、ここでは「散る」という動詞として使われている。「樱花谢了」で、「桜が散った」という意味になる。感謝の意を表す「谢」が、「散る」という意味もあるので、「樱花谢了」は「桜が散った」とも「桜が感謝した」とも訳せるんじゃないかと思う。なんだかちょっと素敵じゃないですか。

「谢」の語源や、「感謝」と「散る」の繋がりまでは分かってないけど、この表現を知ってから桜が散るのを見ると、桜が「今年も私たちを愛でてくれてありがとう」って言ってるような気がして、「いや、こっちこそ綺麗な姿を見せてくれてありがとう」なーんて一人、散り行く桜と妄想会話をしている。

外国語を学ぶと、便利な表現・素敵な表現に出会えて、ちょっとだけ日々に彩りを加えてくれる気がする。

機械翻訳の違いに気づく

冒頭に、私は機械翻訳に頼りまくっている話をした。機械翻訳を使うことで大幅な時短になるし、機械翻訳は私の知らない単語もたくさん知っている。でもまだまだ人間が優っているところもある!(と信じたい)

ということで、Google翻訳の誤り集、別名「Google翻訳の揚げ足をとって、機械に人間の優位性を見せつけよう」のコーナ。(2022年10月時点)

まずはこちら。「土手で走る」という文を日本語から中国語に翻訳した場合、中国語では「銀行で走る」と翻訳されてしまう。。おそらくGoogle翻訳は、非英語言語→非英語言語の翻訳をする際でも一旦英語を介して訳すのだろう。”Bank”という英単語は「土手」と「銀行」どちらの意味もあるので、「(日本語)土手→(英語)Bank→(中国語)銀行」と訳されてしまった模様。

もう一つ、似たような誤りの例を。”Kind”という英単語は「優しい」と「種類」どちらの意味もあるので、「(日本語)優しい→(英語)kind→(インドネシア語)jenis=インドネシア語で種類という意味」に訳されてしまう。

なお、Google翻訳より性能が良いと言われているDeepLやみらい翻訳といった別の機械翻訳ツールでは正しく訳されているようなので、Google翻訳の誤りが改修されるのも時間の問題かも。

でもね、人間としてのプライドがあるわたくし、性能が高いDeepLにも対抗したい!!人間の能力をまだまだ誇示したい。意地悪なお題がけど、DeepLだって、2021年流行語大賞の「親ガチャ」を訳せないでしょう。

英訳結果を、再度日本語に戻してみるとこんな感じ。「ガチャ」の説明を頑張っているようだけど、親ガチャの説明とはなってませんよ。ハッハッハ、人間はまだ機械にまだ勝てるところがある。

こうした機械翻訳の誤りに気付けるのも、ある程度の外国語の素地があってこそ。この先、機械翻訳技術は発達してこうした誤訳は減っていくでしょうが、機械翻訳結果をあなた自身の外国語スキル(例えそれが機械翻訳には到底及ばなくても。)をもって確認して、「よしこれでOK」と太鼓判を押せるに越したことはない!

逃げる場所があるという安心感を獲得する

私が外国語を学んでよかったな、と思うのは、外国語を習得したことによって生きる選択肢が格段に増えたこと。日本で生きてもいいし、英語圏で生きてもいい、日本で英語を使った仕事をしても良いし、そうでなくても良い。

まあ、英語がある程度話せる人なんてごまんといるので威張れることではないのですが、それでも、選択肢があることで、気持ちの余裕に多少つながっているのではないかな、と思う。日本でうまくいかなくなったら、いつだって海外に逃げてやる!って気持ち。

あと、すごーく極端な話をすると、外国語を知っていることは知る権利や思想の自由を守る上でもすごーく重要なんじゃないかなって思う。もしあなたがどこかの国のように、情報が統制された社会にいたとして、その国の母国語しか知らなかったら、その言語での歪んだ情報しか得られない環境の中で、自然と思想がコントロールされてしまうかもしれない。

でももし仮にあなたが、外国語を理解することができたなら、外の世界の情報に触れられる可能性が高まって、色んな情報を比較した上であなたなりの思想を持つことができる。

大袈裟かもしれないけど、外国語を学ぶことは人生の選択肢を増やすことにつながると思う。それはたとえ機械翻訳が発達したとしても、あなたの武器になるはず。 

最後に

冒頭に紹介したツイートの動画を改めて振り返ろう。男性が「福建語が話せず中国語の普通話しか話せない娘と、福建語が話せない自分の母親(娘の祖母)のコミュニケーションツールとして、この機械翻訳が役立つといいな」というようなことを話している。

確かに、機械翻訳は娘とおばあちゃんのコミュニケーションツールとして、とても便利でしょう。孫が学校であった話をおばあちゃんに伝えたり、おばあちゃんの昔話を孫に語ったり、これまでできなかったいろんな会話ができるようになることは素晴らしいこと。

でもそんな中、孫が一言でも二言でも孫にとっては「外国語」の福建語をわざわざ覚えてくれたなら、おばあちゃんは絶対嬉しいだろうと思う。

技術がどんどんこの先も進歩していく中で、機械の利便性を存分に享受しつつ、あえて手間をかける喜びも見失わないようにしたいですね。言語の習得であっても、それ以外のことでも。

以上、長文をお読みいただき、ありがとうございました。

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