12月半ばのとある日。
銀座駅でホームレスが座っていた。
頭には枯葉がついている。
通行人の妨げにならぬよう、柱に向かって小さくうずくまっていた。
通行人からは、彼の丸まった背中しか見えない。12月のボーナスでクリスマス前のショッピングを楽しんだ彼らは、ホームレスを横目にせわしなく通り過ぎていく。
つい数ヶ月前からだ。ホームレスの人を見かけると、数回に一回、何かを差し入れたい気持ちが芽生えてくるようになった。幸い、見知らぬ人に自販機で買った130円の飲み物をたまに差し入れしても家計に影響がないぐらいには、働いている。
私がホームレスの人に差し入れをするのは、本当にその人のことを考えて善意100%で行っているわけではない。おそらく、「この人よりは稼いでいる。」ということを定期的に認識し、自尊心を高めるための儀式だ。自分より下の人がいると安心するという卑しい考えに基づく行動なのに、皮肉にも、差し入れをした後はとても清々しい気持ちになる。
さて、ホームレスの方に差し入れするときは、「本人に気づかれないようにさりげなく」、がポイントだ。
偏見に塗れた不安かもしれないが、もしホームレスの方に「どうぞ、差し入れです」なんて差し出がましく渡したら、「お前、俺のこと見下してるだろ?」と怒鳴り散らかされるかもしれない。あるいは、顔を覚えられて、その道を通るたびに金品を要求されても、困る。怒られない、顔を覚えられないためにも、そっと差し入れをすること。もしかしたらサンタクロースも同じ考えで、子供が寝てる間に置き配をしてるのだろうか。
私は近くの自販機でミニッツメイドを買う。寒いのでホットコーヒーと迷ったが、きっと彼の身体はカフェインよりビタミンが必要なんじゃないかと、失礼ながらに思う。
くれぐれも気づかれることのないよう、丸まった彼の背中の後ろにそーっと、ミニッツメイドを置いた。
この時、私は不意に懐かしい気持ちになった。幼稚園の頃、ハンカチ落としを飽きるほどやったことを思い出したのだ。ハンカチをそっと落として、グルグル走り回って、鬼以外はじっと体育座りをしているだけの、あの遊びだ。
そして大人になって気づく。あれは、誰かの後ろにそっとモノを置く、練習をしていたのだと。真剣に練習した甲斐があった。子供の遊びには思いがけない意味が隠されているのだなあ、と感心する。(諸説あります、きっと。)
せわしなく通り過ぎる通行人に紛れて、私は何事もなかったかのように丸の内線のホームへと向かう。
StromaeのSanteを聴きながら。
“Et si on célébrait ceux qui n’célèbrent pas
Stromae-“Sante”
(祝えない人を称賛しよう)
Pour une fois, j’aimerais lever mon verre à ceux qui n’en ont pas
(今回は、持たざる者たちのために乾杯しよう)”
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